「多情」
仕事がやっと捗り出したというのにブログを書き始める。
いや、捗り出したから安心して書き始めているのかも知れない。
本当に、いろいろと感じること、考えることがある。
昨日もここへ、途中まで書いては、下書き保存に消えていった記事があったりして。
何を取るかってこと。
何を取るかっていうより、自分にとっての優先順位は何なのかってこと。
連休は、いい小休止になったと思う。
かれこれ数ヶ月前から、いつの間にか切り替わっていた仕事脳から覚め、静の世界へ目を向けるいい機会だった。
前のブログにもあるように、もううんざりだった仕事をうんざりなタイムスケジュールでなんとか仕上げ、送った途端、それまで何かに取りつかれていたかのような仕事脳がサーッと解けた。もちろん今はまだ解けている場合ではないし、やることは相変わらず沢山あるのだけど。
ふと、静の世界へ目を向けて。
こうなる前までの私は、何を求めていたのだろうと考える隙があった。
まわりが次々と、結婚、妊娠、出産とステップアップしている中、私は自らの意志で、自らのステップを踏んでいる。この仕事が終わるまでは、この働き方が見えて来るまでは。
ふと、静の世界へ目を向ける隙が出来た時、素直にこう思った。
そろそろ子供、欲しいな。
私の中には明らかに、2人の考え方がある。
タイムリミットがあるものだから、仕事ばっかにかまけていてはいけないと思いながらも、
今が一番楽しい時
と仕事に我武者羅になる自分。
どんなに仕事を頑張っても本来自分の求めているものには報われず、結局、女(少なくとも私)にとっての
一番の幸せは家庭を持つこと
だと思う自分。
静を垣間見る隙が出来た時。久しぶりに、後者の自分に付き合ってみようと思った。やらなければいけないことは多々あったけれど、好きなようにやらせてみた。結果、夫との時間を大事にし、手をつけられていなかった、住いさがしの一歩を踏んだ。
ここで意外なことが起きたんですよ。
住いさがし。
ミーハーな私は、ミーハーな物件を見に行った。
事務所や実家にも近く、子育てと仕事を両立するための環境づくりでもある一歩。自分の思いというよりは、子育てがしやすいかどうか、という目線で見に行った。けれどもやはり、現れて来る思い。
結論から言うと、
後者の私は、"ステータス"に固執しやすい
性質を持っていることに気付いた。
手を伸ばせば手に入らなくはない物件。けれどもそれは、他を全て諦めてまで手に入れるステータスだった。ステータスに固執しそうになっている自分にハッと気付いた時、事務所準備をしていた頃の似た出来事を思い出した。
数ヶ月前、私は心も身体もボロボロで、会社を休職し、ただただ河川敷を歩いていた時期があった。どのリズムにも調和することが出来なかった私と唯一調和したのは、
自然のゆったりとしたリズムだった。
その後、事務所が出来て、その横にある店から聞こえて来る他愛無い会話に、ただただ幸せを感じ、私は本来こういう
静かな幸せを求めていたんだと思った。
会社勤めしていた時も、ステータスばかりに固執するまわりとのリズムが合わず、「やっぱり私は、材料屋にでも行って、コツコツものづくりしてるのが性に合ってるな」なんてつぶやいていたこともあった。
なのに一時期、会社の(自分の自信のなさをステータスで埋めようとする)輩の煽りで、ステータスに固執していた時期があった。その時も結局、
ありのままの自分でいること
自分がやりたいことに素直でいること
が答えだった。
だからこそ、派遣との両立をして、お金のことを考えずに好きなことを好きなリズムで出来る環境を整えたのだった。そこに、ステータスのためのノルマを付けてしまっては元も子もないというわけだ。
何が言いたかったかと言うと、一連の思いを馳せた結果、私にとって、ステータスよりも大事なのは、
家族と自己実現だった。
自己実現というのは、家族がベースにあるからこそ出来るもの。
人としての一番は家族。
自分自身が必要としているもの(何が手に入ったら満たされるのか)は、ステータスではなく、
ありのままの自分で力になれる仕事
だった。
スーツを着て、打ち合わせに行く時。
ステータスなんて全く必要ない、
欲していない、
満たされた自分がいた。
連休に入り、夫の実家のお墓を掃除しに行って、義母と話している時、
幸せを感じた。
住まいさがしをして、自分の力不足にちょっぴり肩を落としている夫を見て、
絆が深まったように感じた。
事務所で母と話して、祖母の話を聞いて、すごく複雑な気分になった。その気分が、このブログを書く原動力になっている気もする。
仕事は忙しい。けれども、それよりも大切なものがあるはず。
私は、祖母に逢いたい。
逢っておきたい。
幸せな気分になってもらいたい。
向き合いたい。
そう思ったら、急に涙が出て来た。
今週末、会いに行こう。